福留孝介が24年のプロ野球キャリアに終止符を打つと決めましたね。
球界最年長の福留孝介外野手が限界引退ということで、世間も賑わっています。
日米通算2450安打。
首位打者2度。
3度のリーグV。
WBC世界一2度。
そんな福留孝介の若い頃の噂についてご紹介します!
引退の福留孝介若い頃は?
福留孝介の若い頃は、頑固でした。
後述しますが、自分の思いを貫き通す頑固さ。
意志の強さとも言えますね。
福留孝介は、意志が強い男だったのです。
プロ野球入りした福留孝介はショートを守っていました。
しかし、守備にはやや難あり・・。
途中、サードや外野で出場するも、難あり・・。
入団4年目となる2003年からは、本格的に外野手となっていました。
守備でのミスも随分と目立っていましたが、
当時監督だった山田が根気良く起用し続け、成長を遂げた福留孝介なのでした。
好プレーを見せてくれていた福留孝介ですが、プロ入りしたての頃は、
守備がどうにもこうにも苦手だったのですね。
引退の福留孝介ドラフト入団拒否の過去も!
福留孝介は、7球団から指名されるも入団拒否。
巨人か中日しか行かないと決めていたんだとか。
それ故に、わがままだと言われることもありました。
福留孝介は、1998年に「ドラフト1位扱い」で中日に入団しています。
1995年の高校卒業のドラフトで、近鉄から1位指名された福留孝介。
しかし、福留孝介は、ドラフトの前から
「巨人、中日以外からドラフト指名の場合は社会人野球に進む」
と公言していたのです。
そしてその公言通り、福留孝介は近鉄への入団を拒否しました。
日本生命の硬式野球部で3年間プレーしたのです。
その後、1998年に再びドラフト対象となった福留孝介。
逆指名制度を利用し、中日を指名。
晴れてドラフト1位扱いで、福留孝介は中日に入団しました。
福留孝介は、元中日の立浪和義に憧れていたのもあるんですね。
頑固というか、意志が強いというか、熱い男ですね。
近鉄さん、福留孝介が大変申し訳ありません・・・。
引退の福留孝介は金の亡者?
福留孝介は、金の亡者のようになってしまったようです。
メジャー挑戦後、
あれほどこだわっていた中日のオファーを断り、阪神へ移籍。
その理由が、阪神の条件が最も良かったから・・。
さらに、甲子園球場でもう1度野球をやりたいから・・。
(気持ちはわかりますよ。高校、社会人と関西でプレーしてましたもんね。)
福留孝介の中日への愛はどこへ・・?
古巣への思いが感じられずがっかりしたファンも多かったと思います。
しかし、その後中日へ復帰してくれました!
福留孝介が若い頃は、契約更改にも素直に応じていました。
しかし、FA権取得前から突然金の亡者かのようになった福留孝介。
なかなかYESと言わず、より良い条件を求め続けていました。
しかし、オープン戦に間に合わなくなると困るので、渋々契約を結んだのでした。
メジャーを視野に入れていたからでしょうが、福留孝介は金の亡者のようになってしまった・・と少し悲しい気持ちになってしまいますね。
そんな福留孝介の気持ちいいほどの名言(迷言)をご紹介!
・誠意は言葉ではなく金額
・僕の年俸が上がらないと後輩たちに夢を与えられない
・井端が1回ゴネて3000万円上がるのはおかしい
・年俸が上がらないから車が買えない
・上がった分は寄付するつもりだった
引退の福留孝介、気になるその後は?
会見前ですが、福留孝介の引退後が気になりますよね。
可能性①ニュースでの指導者
可能性②監督
⇨日米で活躍した経験と実績がある福留孝介。
電鉄本社や球団の一部から、幹部候補として高い評価を得ているようです。
ロッテの井口も福留孝介と同じようにメジャー経験があります。
そんな井口は、現役を引退した翌年に監督に就任しました。
若手育成の成果を上げています。
もしかすると、福留孝介も同じような道を歩むことになるかもしれませんね。
今後の福留孝介の発言に注目したいと思います!
まとめ
金の亡者だとか中日への裏切りだとか噂される福留孝介・・。
しかし、実は東日本大震災の時に、年俸を寄付したのも福留孝介なんですよ!
その額なんと100万ドル!
当時の100万ドルは、日本円で約8000万〜1億円!!
イチローや松坂も100万ドル。
松井秀喜やダルビッシュは50万ドル。
さすが、福留孝介!やることがでかい!
そんな福留孝介の引退後の行く末を見守っていきたいと思います!
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